深田 上 免田 岡原 須恵
幻の邪馬台国・熊襲国 (第12話):アナザーストーリー (1)

12.宮崎は「天孫降臨」と「神武東征出立」の地だったのか

 神話の「天孫降臨」と記紀(古事記と日本書紀)にある「神武東征」のくだりを自己流に解釈し、現代風の文章で示すと次のようになる。
 「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、中国南部の呉(ご)あたりに住いしていた。ある日、祖母のアマテラスから、九州の新天地で一旗(ひとはた)揚げるように言われた。そこで、今の中国浙江省(せっこうしょう)の寧波(ねいは)あたりから出港し、偏西風を味方に東に進み、黒潮の流れに乗って大隅半島か志布志湾あたりに上陸した。今の南九州が倭の襲國(そのくに)である。この地で瓊瓊杵尊は、稲作農耕や鉄製武器に関する技術を伝授するなどして、地域住人の信望を集め、次第に地元民を手懐(てなず)けし、支配者になっていった」。
 やがて、地元豪族の娘、花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と結ばれ、海彦や山彦という子やひ孫(後の神武天皇)も得て、勢力を拡大していった。

 当時、九州の北部は卑弥呼を女王とする邪馬台国があったが、瓊瓊杵尊勢は、ついに5世紀の初め(413年頃)、邪馬台国を倒し、九州を制圧した。身内が集まって、さらなる勢力
拡大のため、東征に向かうことにした。それが記紀にある「神武東征」である。旗頭は、瓊瓊杵尊の曾孫(ひまご)にあたる磐余彦(いわれびこ)、後の神武天皇である。記紀にある出港地は宮崎県日向市の美々津であるが、ここが出港地であったのか疑わしい。また、なぜ陸路で北上しなかったのか、陸路では反抗勢力を恐れたからなのか、謎の多い伝説である。とにかく、南九州の港から出港して現在の宇佐市周辺の豪族を制圧し、九州北部の港に上陸し陣を構えた。そこには、まだ邪馬台国時代の残党がいて、これらを改悛(かいしゅん)させ、従属させる必要があったからである。

 瀬戸内を北上し、広島や岡山地区の反抗勢力を屈服させ、大阪湾へはいった。しかし、生駒山あたりで強力な長隋彦(ながすねひこ)勢力に抵抗されて退却、仕方なく紀伊半島を回って熊野に上陸、山中で擬人化(ぎじんか)された金色の鵄(トビ)、「金鵄(きんし)」や三本の足を持った「八咫烏(やたがらす)」の助勢や道案内があり、ようやく目的の大和の地にたどり着き、生駒山からの宿敵も倒して初代の神武天皇として即位した。

 瓊瓊杵尊は、中国浙江州の寧波から出港し、倭の大隅半島のつけ根付近に上陸したと書いたが、それは、この地区の弥生時代遺跡数が九州北部に匹敵するほど多いからである。そこの住人は中国南部からの南方ルートでの渡来人だと考えられるからである。三世紀の呉の国から多くの人が倭国(日本)へ移住・渡来してきたことは、中部ふるさと会の「ふるさと探訪」やふるさと関西会の「ヨケマン談義」でも紹介した。神話にあるように、天孫降臨の地が日向だと考えられないのは、宮崎県の弥生時代遺跡数は九州本土では最少であり、磐余彦尊勢力の根拠地だったとは想定できないからである。したがって、日本書紀にある瓊瓊杵尊の降臨の地、「襲」は「襲國(そのくに)」「熊襲国」であったと考えられる。

 これらの地は、弥生時代遺跡の分布と考え合わせると図36の地域が想定できる。令制国(りょうせいこく)以前において、日向と大隅は同地域であり、飛鳥時代から明治の初期までは、大隅国(おおすみのくに)であった。したがって、神武東征ルートも図36右のように想定できる。なお、図に「美々津」と挿入したのは、記紀にはないが、神武東征軍出港の伝承地だからである。なお令制国とは、奈良・平安時代の法体制下での地方行政区分のことである。

降臨の地と東征ルート
図36.  天孫降臨の地・襲國(左) と 神武東征ルートの想定図(右)

 付言すると、桜島は、弥生時代も度々、噴火をくりかえしていたので、南方ルートでの移住者は、鹿児島湾の奥への侵入は避け、桜島から離れた大隅半島の肝属(きもつき)地方に上陸して居住した。その証は、先に示した九州における遺跡分布からも分かる。

<つづく>   
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